古来貴寛の生い立ち
小学校時代
北海道にある釧路町というところで18年間過ごしました。釧路湿原の中にある町、というイメージです。タンチョウという頭が赤い鳥が飛んでいますし、テニスコートに降り立ったタンチョウも見たことがあります。小学校の裏に回るとほぼ湿原で、モウセンゴケという食虫植物も観察できました。昔、小学校があった場所は海だったようで、小学校裏の山を掘ると貝の化石が出てくるような自然しかない地域でした。小児喘息を持っていたことを言い訳にしますが、球技や陸上競技は全然動けずに苦手でした。その代わり、マット運動や跳び箱など器械体操は好きでした!意識して勉強していたわけではなかったのですが、5-6年生の時に担任だった女性の先生に会えたおかげで私の勉強に対する姿勢は大きく変わったと考えています。5年生になった途端に、その先生は家庭学習の習慣をつけるべく、前日に行った勉強内容を次の日の朝に提出しろ、というもの。怒ると怖い先生でしたので、私はたくさん勉強して毎朝ワークやまとめたノートなどを提出していました。6年生のある時、放課後の掃除の時間に先生から、「古来くんはクラスの中でもかなり勉強しているけど、なんで勉強しているの?」と質問されました。私はとくに考えることなく、「先生に怒られないように。」と答えましたが、その先生は「これからは、怒られるために勉強するのではなく、自分自身のために勉強しなさい。」と諭されました。エピソード記憶が弱い私ですが、ここは未だに覚えている場面の1つで、勉強に対する姿勢が大きく変わった出来事でした。小学校卒業後、1回は会ってお礼がしたかったのですが、叶わず今に至ります。


中学校時代
小学校の同期100人がそのまま中学校に上がるため、メンバーは変わりませんでした。家庭学習の習慣は途絶えることなく、その勉強の動機は「自分の将来のため」と思えるようになっていました。全教科得意であればよかったのですが、私は国語が致命的でした。嫌いではなかったのですが、数学や理科の方が圧倒的に好きだったため、家庭学習でも理系科目に費やす時間が多くなってしまいました。運動は相変わらずできませんでしたので、体育、体育祭はかなり嫌いでした。何よりこの時代は、運動部男子が非常にモテたため、合唱部だった私は、運動部が羨ましかった記憶があります。3年間は全体的に楽しく過ごすことができました。

高校時代
釧路市の進学校に入学し、私はとても驚きました。みんな初めまして~くらいの4月に、当時のセンター試験数学2Bという分野を解いていた友達が何人もいたことです。私は、大学受験というものも知らないで、高校受験がゴールとさえ思っていたくらいの世間知らずでした。私が入学したのは理数科というクラスで、3年間クラス替えのない理系の大学受験に特化したクラスでした。学校のテストでさえもみんなについていくのに必死で、センター試験や2次試験を想定した全国記述模試ではぼろぼろの成績でした。1日3時間しか寝ない友達がいたので、寝ないで勉強したらもっと成績が上がるかもしれないと真似して夜中まで勉強するも、翌日の授業がまともに聞けないなど、当時の私はどうかしていました。勉強しか頭になかったせいか、高校3年間の思い出はとても少なく、もったいない過ごし方をしたなーと後悔。高校で外科医になりたいと思い、医学部を目指すことになりますが、変な勉強の仕方をしていたこともあり成績は伸びず、現役では合格しませんでした。

浪人時代
親より1年間の浪人の許可を得て、高校卒業後は釧路を離れ、1人札幌の河合塾で予備校生活をスタートさせました。釧路の知り合いは数名いましたが、基本的に1年間は1人で過ごしました。規則正しい生活を心掛け、初めての塾通いを楽しんでいました。札幌医科大学の医学部を目指していましたが、浪人して1番最初の模試でまさかのB判定!現役時代はほとんどE判定だったので驚きました。医学部は雲の上の存在、私の様な凡人には医学部は無理かと現役時代は思っていたのに、まさかのB判定だったので、その後の浪人生活でのモチベーション維持に大きく影響しました。結局、その後何回か模試を受けるもB判定止まりでしたが、こつこつと勉強を続けていました。
センター試験の結果は9割に届きませんでしたが、志望校は受験可能圏内にいたため、第1志望の札幌医科大学医学部の2次試験を受験しました。筆記試験と面接試験を終え、手ごたえは「受かりそう」と謎の自信。前期試験の結果を待たずにすぐに後期試験の勉強をするのが普通ですが、なんと私は後期試験の勉強をせず釧路に帰省していました。今思うと、意味が分からないのですが、前期試験でやり切った感じだったのでしょうか。前期試験の合格発表日、釧路でパソコンを開き、自分の受験番号を見たときには本当に嬉しかったです。
大学時代
浪人生活の1年があったせいか、医学部での6年間はとっても楽しく過ごすことができました。6年間合唱部に所属し、歌って、飲んで、旅行して。医学部の同期、同じ合唱部で6年間過ごしたメンバーの1人とお付き合いし、のちに結婚することになります。釧路の実家には、6年間の生活費や授業料、教科書代など本当にたくさんお金を使わせてしまったなーと申し訳ない気持ちと、感謝の気持ちでいっぱいです。大学では飲み会が多く、学年が上がると後輩に奢る流れがあったため、家庭教師のバイトを週2回で行っていましたが、毎月金欠な毎日でした。
初期臨床研修~市立函館病院~
北海道の中では初期臨床研修先として人気のある市立函館病院。救急車搬入台数が道内でもトップクラスに多く、研修医にとっては非常に経験値が積めると人気でした。函館という町にも住んでみたいという気持ちもあり、私はここを第1希望で選んでいました。初期臨床研修1年目は消化器内科3ヵ月、循環器内科3ヵ月、救急科3ヵ月、外科3ヵ月を選択しローテートしました。上部消化管内視鏡検査は消化器内科の3ヵ月でたくさん学びました。診療終了後には胃カメラのシミュレータを用いて胃カメラの練習をし、基本的操作方法を取得しました。初期臨床研修2年目には必修の地域実習1ヵ月や精神科1ヵ月などをこなし、残りを消化器外科や心臓血管外科、呼吸器外科、乳腺外科、小児外科にあてることで、外科専門医を取得するのに必要な手術症例数を、初期臨床研修中にすべて経験することができました。非常に有意義な2年間だったと思います。仕事がつらい時もあったのですが、この2年間は妻が千葉県八千代市で初期臨床研修をしていた影響で、2年間遠距離だったこともつらかったです。
医師3年目~八千代医療センター 小児外科~
将来は小児外科医を目指し、札幌医科大学の消化器外科教室に入局しました。ずっと北海道でもよかったのですが、妻が八千代市に出たっきり、3年目以降も産婦人科医として八千代に残りたいと希望されました。これ以上遠距離は嫌だぞ~と思ったのと、1度は北海道外で小児外科を勉強してもよいかもと思い、当時の消化器外科の教授にお願いし3年間の国内留学という形で妻が勤務する八千代医療センターに赴任しました。私は小児外科に3年間、妻は産婦人科に3年間勤務しました。
妻「うちで診てる妊婦のお子さんが横隔膜ヘルニアかも」
私「じゃあ、生まれたら小児外科で手術かもね」
こんな感じで産科と小児外科は密接に関わる科で、院内でも自宅でも情報交換していました。小児外科は対象疾患が多すぎてびっくりします。鼡径ヘルニアや陰嚢水腫、臍ヘルニア (出べそ) などありふれた疾患から、生まれつき食道が閉鎖している子、鎖肛といって生まれつき肛門が無い子、へその緒の中に腸管などが脱出している臍帯ヘルニア、生まれつきお腹の壁が形成されず腹腔内臓器が体外に出ている腹壁破裂、尿道口と膣口と肛門が形成されず1つの穴になっている女の子なども経験しました。小児外科の3年間で特に印象が強かった症例は、重症の横隔膜ヘルニアの患児でした。先天的に横隔膜に大きな穴が開いている影響で腹腔内臓器が胸腔に脱出し、肺の低形成、肺高血圧を呈している患児でした。母体のエコーで重症の先天性横隔膜ヘルニアは判明していたため、産前の産婦人科、小児外科、新生児科などでカンファレンスを繰り返しました。肺がつぶれて育っていないため、生まれて胎盤から切り離された後は、自力で酸素を取り込めないことが想定されました。当時、八千代医療センターでは第1例目となる重症先天性横隔膜ヘルニアに対するECMO (体外式膜型人工肺) を計画しました。ECMOは肺で血液を酸素化できない患者さんに対し行い、血液を体外に出して人工肺で酸素化した血液を体内に戻す治療法です。予定帝王切開により赤ちゃんを娩出後、ただちに動脈、静脈にカテーテルを留置し、ECMOを開始しました。そこからは、小児集中治療室にて小児科医、小児外科医、新生児科医が毎日寝ずに泊っていました。最終的に、その子は亡くなりました。集中治療室で、赤ちゃんを抱いたお母さんが、泣きながら「ありがとうございました」と言った時には、私たちスタッフも救命できなかったことに対しとてもつらい時間だったのを覚えています。
医師6年目~札幌医科大学 消化器外科~
妻と2人で札幌に戻り、私は消化器外科医として、妻は引き続き産婦人科医として診療を開始しました。上部消化管チーム、下部消化管チーム、肝胆膵チームなどローテートしながら少しずつそれぞれのチームで手術を行いました。ロボット手術を積極的に行っている教室であり、多くの手術がロボット手術になっていました。6年間大学にいましたが、下部消化管チームが長く、主に大腸癌の診療に携わっていました。大学院にも進学し、直腸癌術後の排便機能というテーマで学位を取得することができました。プライベートではこの6年間の間に、娘と息子が生まれ4人家族となり賑やかになりました。
医師12年目~あまが台ファミリークリニックから現在~
この度、ご縁があり四街道市のクリニックを承継することになりました。承継日までの間、長生郡のあまが台ファミリークリニックで学ばせて頂けないかとお願いしたところ、受け入れてくださり、2025年4月~11月までの8ヵ月間所属しました。開業を目指す医師を指導する院長のもと、内科、糖尿病内科、小児科、皮膚科の患者さんを数多く診療しました。院長をはじめ、クリニックの理念に共感する優しいスタッフからたくさんのことを学びました。年齢を問わずに受け入れ、地域住民の健康を守るそのクリニックは、地域に愛されているなと強く感じました。信頼され、このクリニックに来たら不安が和らいで安心しておうちに帰れる、患者さんからはそんな声がたくさん聞こえました。私はこれまで小児から成人まで主に外科的側面で患者さんを診てきました。あまが台で小児から成人まで内科的側面から診させていただき、私の臨床力が高まり自信につながったと思います。私は開業医としてスタートを切ったばかりですが、地域の皆さんに貢献できるよう尽力し、これからもクリニックとともに成長できたらと考えています。
医療法人社団 昂花会
四街道みんなのクリニック
院長・医学博士 古来貴寛

